これは、クリント・イーストウッド主演の映画『運び屋』にちなんだ表題です。この映画が撮影された時、彼は88歳でした。
88歳でなお主役を演じる。その姿だけでも十分に驚かされますが、この映画を観ていると、単に「高齢でも元気だ」という話では終わらない、年齢を重ねた人間の哀しさや強さ、そして誇りのようなものを感じます。
映画の中で彼が演じるのは、妻や家族から距離を置かれてしまった一人の高齢男性です。若い頃は仕事に打ち込み、外では評価されてきたのかもしれません。しかし、その一方で家族との時間を失い、気がつけば大切な人たちから心を閉ざされてしまっている。
そんな彼の仕事は「運び屋」です。マフィアから、人には言えないような荷物を預かり、ただ目的地まで運ぶ。荷物の中身を見てはいけない。理由も聞かない。ただ車を走らせるだけです。若い悪い連中は彼を馬鹿にしながらも、その仕事を彼に任せます。
映画の中で、彼はスマホを渡されても使い方が分かりません。それでも周囲には強がって見せます。拳銃を突きつけられても、「俺は戦争に行ったんだぞ」と若いマフィアをたしなめます。
その姿は滑稽にも見えますが、どこか胸に迫るものがあります。時代についていけない自分を分かっていながら、それでも簡単には弱さを見せない。古い人間なりの意地があり、経験してきた人生への自負もあるのです。
しかし本当は、家族から言われたことを気にしています。平気なふりをしていても、心の奥では傷ついている。運び屋として砂漠を走っている時、彼は大きな声で歌を口ずさみます。その歌声には、自由さと寂しさが同居しているように感じます。
私も朝一番で工場へ向かう時、窓を開けて大声で歌うことがあります。そんな時、この『運び屋』の映画を思い出します。まるでアメリカのハイウェーを走っているような気分になるのです。仕事のメールでExcelシートを添付したつもりが、実際には添付されていなかった。若い社員に注意される。話している内容が聞き取りにくくなり、「耳が悪くなったのですか」と言われる。そんな場面で、私は88歳で映画に出演していたクリント・イーストウッドの姿を思い出します。
何も言い返せません。なぜなら、その通りだからです。できていたことが、少しずつできなくなる。分かっていたはずのことを忘れる。若い人にとっては当たり前のことが、自分には少しずつ難しくなっていく。歳を取るとは、そういう現実と向き合うことなのかもしれません。
けれども、そこに人間の価値がなくなるわけではありません。速くできない、正確にできない、新しい道具にすぐ対応できない。だからといって、その人が歩んできた時間や、積み重ねてきた経験まで消えるわけではないのです。
年齢を重ねて働くということは、自分の衰えを受け入れながら、それでもなお、自分の役割を探し続けることなのかもしれません。そして周りの人たちもまた、その姿をどう受け止めるのかを問われているのだと思います。
人は、できることが減っていく中で、どのように人格や誇りを保っていくのでしょうか。働き続けるとは何なのか。年齢を重ねるとは何なのか。
さて、この映画『運び屋』の結末はどうなるのでしょうか。
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