
日暮里の駅から少し外れた場所に、行列の絶えない立ち食いそば屋がある。「一由そば」だ。24時間営業。名物はゲソ天そば。今朝は明け方の4時に立ち寄ったのだが、それでも私の前には8人が並んでいた。
正直に言おう。飛び抜けて美味しいわけではない。ゲソ天と紅生姜天をのせて790円。決して安くもない。つゆは濃く、真っ黒。味も値段も、他店を圧倒しているとは思えない。このくらいのクオリティなら――お店の方には失礼を承知で言えば――他の店でも再現できるだろう。
それなのに、夜中でも人が並ぶ。
ここに、私はどうしても当社の向かうべき方向が重なって見えてしまうのだ。
誰にでも作れる味。誰にでもできる店の回し方。だが、それを実際にやっている店は、そう多くない。だからこの店は繁盛する。しかも一等地ではない、駅前から少し外れた場所で、である。
話は変わるが、サイゼリヤのことを思い出す。物価高でも値上げをせず、価格をほぼ据え置いたまま客数を伸ばし、既存店売上は40か月以上も前年を上回り続けている。 ところが一方で、恵比寿や新中野といった都心の店舗は相次いで閉店している。低価格を貫くと、都心の高い家賃では採算が合わないからだ。 それでも会社全体は伸びている。「守るべきものを守るために、あえて手放す」――これもまた、明確な戦略なのだ。
誰もが思いつく。その気になれば、できる。しかし、誰もやらない。
――ここに、当社が生きる道があるのかもしれない。
需要は小さい。けれど、確かに必要とされているもの。大手が量を追えず、採算に乗せにくいもの。あるいは、特定のお客様だけが本当に必要としているもの。そして何より大事なのは、平凡な我々にも思いつき、作ることができるという点だ。
世の中には、「唯一無二の技術」「他社に真似できない技術」にこそ価値があり、誰にでも作れるものには価値がない――そんな空気がある。だが、本当にそれがすべてだろうか。
確かに、誰にも真似できない技術には価値がある。それは疑いようがない。だが、価値とは、意外なほど身近なところにも転がっているのではないか。
一由そばに、私は当社の当面の未来を感じてならない。店は決してきれいでも、洒落てもいない。若くて綺麗な女性は、来ないかもしれない。それでも、その佇まいを「良し」とする人々が確かにいて、店を支えるだけの客数を、ちゃんと満たしてくれているのだ。
求められているのは、非凡な技術だけではない。凡人の我々が続けられる、当たり前の仕事を、当たり前にやり切ること。その先にこそ、我々の居場所がある。
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