終戦記念日を前に

この写真はご存じの方も沢山いるでしょう。先日お会いした北見の社長室にも飾ってありました。
この写真は長崎に原爆が投下された後、背負っている自分の幼い弟(亡くなっています)を火葬場に焼いてもらうために、順番を待っている少年です。この少年はどんな気持ちで待っていたのか?この凛とした姿勢で待つ少年。

私は戦前教育がどのようなものか分かりません。戦争に行くことを尊いと言ったかもしれません。だからと言って本当に戦前教の全てが悪いと断言でき、戦後教育が全て良いとも信じがたいです。
悲しい写真ですがこの少年の姿には人間の尊厳すら感じます。
皆さんそれぞれの感じ方があるでしょう。
この写真を見る限り、学校教育携わる方々、教育評論家、全てが絵空事に感じるのは私だけなのでしょうか?

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松下幸之助の言葉

「遠慮とは、”運”の入口を自分で塞いでいる行為」ということです。
私がいう遠慮とは、
節度や礼儀のことではなく、自分の声を抑え込み、本音をしまい込み望みを後ろに押しやってしまう自己否定のことです。
”いい人”という評価の代わりに、あなたはいくつの「自分の本音」を犠牲にしてきたのでしょう。いくつの「本当は嫌いだったこと」に黙って耐えてきたのでしょうか。それは決して悪ではないが、”報われなさ”という形であなたに跳ね返ってきています。
それでも、あなたは”優しい人”であり続けるかもしれません。
けれど
「やさしさ」があなたを幸せしていないなら、そのやさしさの”あり方”を見直すべきです。

人に頼まれると断れない。
周りの空気を読んで、つい一歩引いてします。自分さえ我慢すれば………そう思ってずっと遠慮して生きてきた。
そこで考える
「なぜ自分は報われないんだろうか」、人の為に尽くしてきたのに。
誰かを傷つけるようなことは言ったこともない。出来る限り誠実に、優しく、控えめに、丁寧に、そうやって生きてきたのです。けれどなぜかうまくいかない。
なぜか声を上げる人に主役をとられ、そのたびに思うのです。
「もう少しだけ、うまく立ちまわれたら」
でも私はこう思います。
遠慮深くて優しいことと、運に恵まれこととは、決して一致しない。むしろ”遠慮”という美徳が、運を遠ざけてしまうことがある。
そのことに気づかないまま
”いい人”を演じつづけている人がどれほど多いことか。
私は今こう思っています。
「運は、優しすぎる人の背中を通り過ぎていく」と。もちろん、やさしさが悪いわけではありません。人を思いやる気持ち、空気を読む心、控えめな姿勢、それ自体は美しいものです。
しかし
”自分を消してまで”周囲に合わせる”と人生は”他人の都合に従って流れてしまうのです。
本当のやさしさは
自分の心をないがしろにしない強さでもあります。
そうしなければやがてこうなります。
「自分は何を望んでいたのか、分からなくなる。」遠慮とは気づかないうちに、”自分の存在を薄くしてしまう行為”です。表面では笑っていても、心のどこかで、ずっと「押さえつけられている」と感じているのです。その静かな葛藤が、”運”の流れをとめるのです。
人間というのは
「自分の本音に正直に動いたとき」に初めて”運”という味方が、そばに現れるようになっているのです。
運とういうのは、自分を生きる人間に引き寄せられます。
とりあえず、この話はここまで。

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